Well Beingの実践

SNSに対する違和感と能動的選択について

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SNSに違和感を覚え始め、最近、少し距離を置くようにしている。

全然使わないというわけではないのだけれど、自分で使う目的を決めて、その目的のためだけに使う、みたいな感じかな。

発信側の違和感

最初に違和感を覚えたのは、発信側としてだった。

前のブログをマメに更新していたときは、少しでもアクセスを増やしたくて、Facebookページも作ったし、ページの「いいね!」が増えれば嬉しかった(色々な人の協力もあって、250くらいまでいったんだったかな)。

ただ、そのFacebookページに記事の更新の通知を書き、それをさらに「シェア」して、自分のタイムラインにも載せ……としていると、いつも同じ人ばかりが「いいね!」してくれていて、それを見て、「申し訳ないな」という気分が湧いた。

ブログの記事にしても、小説にしても、自分の書くものを、心から気に入ってくれる人とか、必要としてくれている人がいる、とは信じている。

でも、知り合いのすべてが自分の記事や小説を必要としているわけではない。

だったら、何度か「こんなブログを書いていますよ」という紹介だけして、あとはもう「気に入ったら、たまに覗いて。こっちからはそんな宣伝しないから」というスタンスがいいんじゃないかな、と。

それは、人に気を遣って、というのもあるけれど、自分のためでもある。

「申し訳ないな」という気持ちは、無意識のうちに、「自分の文章なんかを読ませて……」という、自己卑下の気持ちを産む。

それは自分にとっても、心地よくない。

それよりは、たとえアクセスが一時的に減っても、

「私は私の大好きなことを書く。それを分かってくれる人は必ずいるはずだから。そういう人に向かってだけ、私は書き続ける」

という方が、力強い。だから、自分にパワーが戻る。

そして、エネルギーのある文章を書ける気がした。

※twitterは、ブログ読んでフォローしてくださった方が多いので、更新情報は流します。

 

受け手側の違和感

受け手側の違和感としては、「選択しているようで、選択できていないな」と感じたというもの。

確かインターネットが普及し始めの頃は、

「インターネットの世界になると、人は能動的に情報を得ることができるようになる。テレビのように受動的な行為は減る」

みたいなことを言われたように思う。

(昔の記事を読んでいたら、「インタラクティブ」について語っているものがあって、あぁ、そういえば、Windowsが出始めた頃は、「インタラクティブ」という言葉がはやったな、と思い出した。

「インタラクティブ」という言葉は今もたまには使われるのだろうけれど、意味合いは当時とちょっと変わっているのかもしれない。以前は、「双方向」であることが、非常にセンセーショナルで、人目を惹いた)

確かに、Windowsが出て、無料ブログができ、SNSができて、スマホが出て、最近はYouTubeなど動画でまで素人が発信できるようになり、「テレビよりYouTubeや動画サイトの映画やドラマを見る」という若者が増えてきている。

それって、一昔前の、「6チャンネルのなかから、一つ選んでみることができます」という世界から考えると、すごい多様性だ。

でも、選択肢は増えても、人がしていることは、そこまで「能動的」になったのだろうか、と思う。

結局人は、何かに踊らされているだけなんじゃないか、と。

 

Facebookにも、「この人の投稿は是非見たい」と思う人の投稿を「トップに表示」と設定したり、付き合いで友達になったものの、この人の投稿は見たくないという人のことを、ひっそり「フォローをやめる」なんてこともできる。

それでも、やっぱり、SNSを開くと、「一方的に情報がこっちに向かってくる」という感覚がぬぐえない。

自分の気分を悪くするテレビ番組は見ないようにし(ワイドショー的なものとか)、情報統制をしているつもりでも、SNSを見ていると、色々な情報に……きつい言葉を使えば……汚染される。

普段の発信に好感が持てる人でも、その人が「いい」と思ってシェアした記事に不快感を覚えることもある。

それに単純に、広告も多い。見たいものを見ているつもりで、「広告」も見せられる。

 

もちろん、そういうすべては「多様性」であり、この世界の面白さでもある。

ただ、自分自身がもっとぶれずに自分の思考や感情をコントロールできるようになってから、その多様性に触れるのでもいいのかもしれない、と思った。

自分の奥深くに潜り、自分の原石を見つけて磨いて作品に仕上げていきたいと思っている今は、できるだけ自分に静寂を与えたい。

大切な時間を、過去自分の心を震わせた小説を読みなおす時間とか、こうやって記事や日記を書いて、自分の思考を整理する時間に充てたい。

 

親しい友人の近況は、会う約束の少し前に遡って情報収集すれば、それで事足りるように思う(本当に親しければ、会ったときに訊けばいいし)。

そして、本当に得たい情報は、検索したり、ブックマークしたりして、自分から「能動的に見に行く」。

しばらくは、そんな生活をしてみたいと思っている。

  

能動的に選択しよう

エイブラハムはよく「流れに流される」「抵抗しない」ということを言うし、スピリチュアルな人ほど、「受け入れることが大事」みたいに考えているかもしれない。

でも、やっぱり私は人生は能動的に選択し、切り拓いていくものだと思う。

だって、思考だって、放っておいたら、マイナスな方に傾く。それが「人類」というものらしい。そして、能動的に思考をコントロールしていない人がまだまだ多いこの世界では、マイナスな方に思考を引っ張るニュースや発信が多い。

そういうのを受動的に受け入れ、流されていたら、決して、しあわせな未来には到達しないだろう。

エイブラハムが「抵抗しない」と言っているのは、よく読みこめば、「人は自動的に抵抗する思考をしてしまうものだから、それを“抵抗しない”、つまり、良い気分になる思考に意図的に変えていく必要がある。それには、訓練が必要だ」ということを意味している。

人は流されるままでは、「惰性による創造」をしてしまう。たまには、「惰性による創造」でいいことも起こるかもしれない。でも、多くは「あぁ、また昨日の繰り返し」という、あまり嬉しくないことが繰り返される。

思考を意図的に選ぶことが、「意図的現実創造」につながる。

外で起こる出来事を私たちはコントロールできない。でも、それに対する考え方は変えられるし、それ以前に、何を自分の中に入れて、何を入れないか、それを選択することも、意外と多くの場面でできる。

その意図的な、能動的な選択は、怠らずにやっていきたいと思う。

 

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