新型コロナの緊急事態宣言を受けて保育園の休園が続き、ずっと子どもが家にいる不思議な日々。
シビアに優先順位を決めて動かないと、やるべきことが終わらなくなってしまうのもあり、ブログも1か月以上止めてしまいましたが、至って元気に過ごしています。
コロナの影響で、仕事が忙しくなった人、逆に職場が休みになり暇になった人……どちらもいるのでしょうね。
私の場合は、本来の仕事はやや減ったものの、子どもの相手という大きな仕事ができ、3月以前よりよほど忙しかったです(^-^;
それでも社会が動きを止め、人が皆うちに籠る時間のなか、今までにない濃密な時間というか、今までとは違う価値のある時間を過ごせた“緊急事態宣言”期間だったように思います。
遠出ができない分、近所を散歩したり、テイクアウトを始める店が増えたので、今まで行ったことのなかった店に昼ご飯を買いに行ってみたり……地元を感じる時間が多く、“しあわせはすぐ近くにあった”という、青い鳥をイメージしたりしました。
“庭付きの家だったらよかったな”とか、車で遊びに行っていた公園の駐車場が閉鎖されるなか“もっと近くに大きな公園があるようなところに住んでいたら良かったな”とか、ないものを挙げればキリはないけれど、狭いベランダでも、レジャーシートを敷けば、なんちゃってピクニックができるし、植物の苗を植えたら、ぐんぐん育って窓から見える緑が豊富になるし……目の向けどころ次第ですね。
この2か月ほど、子どもがいて思うように動けなかったけれど、その分「今はしょうがない」と、行動量や成果に目が向かなかったのも、良かったように思います。
特にコロナの初期の頃は、“これから、どうなってしまうんだろう”という不安に社会が飲みこまれ、空気が息苦しかったので、自分の心のなかを平穏に保つことを第一優先にしていました。
忙しくても、できるだけ、ぼーっとして、ソースを感じる時間を作る、とか。
特に日が暮れるのがまだ早かった4月にお気に入りだったのは、日が暮れて少し経ち、人気が無くなった川沿いの公園の縁石に一人で座り、黒く流れる川を眺める時間でした。
それは、とても静かで落ち着いていて、未来も過去も、不安も心配も期待も何もない、無の時間でした。
そんなふうに自分の生活のペースを落とし、穏やかに自分自身と対話することが増えた頃、ふと思い出したのが、ソーントン・ワイルダーの「わが町」 という芝居です。
有名な芝居なので見たことがある人もいるかもしれませんが、3幕からなるこの芝居は、ごく普通の日常生活が描かれているようでいて、一風変わった構成になっています。
それは第3幕は死んでしまった女性の視点で世界が描かれるからです。
大分前に見た芝居なので、細かい部分は忘れてしまったのですが、第3幕では、死んでしまったその女性がこんなふうに言われます。
「生きていた頃の1日だけもう一度体験させてあげよう」
女性は、特別なことがあった1日を選ぼうとするのですが、「そんな特別な日ではなく、もっとありふれた1日の方がいい」と言われます。
そして女性は十二歳の自分の誕生日を選びます。
でも、死んでからその日の自分に戻ると、生きている周りの人たちが常になにかに追い立てられ、慌ただしく動き回っているように見えます。
その女性は、「早く学校に行きなさい」という母親に心の中で思います。
「もっときちんと私のことを見て」
なぜか非常に印象に残っているシーンです。
私たちはきっといつだって、そんなふうに何かに追い立てられ、“今、ここ”から意識をすっ飛ばして生きている。
今回コロナで世界が動きを止めたような時間のなかの、さらに静寂を感じられる刻に立ち、ふと思ったのは、
自分が死んだあとに戻りたい1日は、このあたりにあるのかもしれないな、ということでした。
第2波を心配する声もありますが、とりあえず緊急事態宣言は解除され、社会はまた少しずつ動き始めました。
でも、“死んだ後に戻りたいと思える1日”を意識して生きるというのは、忙しなく動き続ける社会のなかでこそ、大事なことかもしれません。
この2か月は、すぐ足元にある大事なものに目を向け、慈しめた大事な時間でした。
私たちの穏やかな生活を守ってくれた、医療関係やライフライン維持に携わる方々や今の環境を作ってくれているもの……様々なものに感謝です。