今日は、(ハル)をビデオで見て、感動してしまいました。
パソ通をしている人のお約束、みたいな映画ですよね。あれを見て、パソコンを電話回線につないでしまった人も多いのでは…?
「はじめまして」のあとは上手くいくのだろうか、とついいらぬ心配をしてしまいますが、でも、この世の中のどこかに、自分のことを考えてくれている人がいる、その人と、気付かないうちに、すれ違っているかもしれない、という「感じ」に惹かれてしまいますね。
私も小さな変化ですが、そういえば、パソコンを使うようになってから、色々な場所の天気が気になるようになりました。(ハル)では、お互いその人の住んでいるところの路線図を調べて、それを書き合う。それで、少し距離が縮まった気がするというところがありますが、世界地図(日本だけでないところがまたすごい!)をみて、今まで何の関心もなかった場所が、身近に思えたりしています。世界を意識できる時代に生まれられたことに感謝、です。…とにかく暇があったら(ハル)はお薦めです。見て下さいね!
でも、6日の日記では、かなりパソコンのいいところを並べ立てていますが、では、パソコンの弊害ってなんでしょう?
ある本には、「触覚」が育たない、というようなことが書かれていました。私の感じていることも、似ていると思うのですが、相手の「空気」を感じられないことです。
私は、どんな小説を書いているの?と聞かれたとき、「多分、空気、を書いているんだと思う」などと答えます。私がここにいて、あなたがそこにいる、その間にある空気が好きです。役者をしていたとき、よく「おまえの周りの空気はからっぽだ。もっと埋めてこい!」と言われていました。その「空気」なのかもしれません。「存在感」かな。
誰かといて、心地いいか、居心地が悪いかは、きっとその「空気」の質なんじゃないかな。お互い黙っていても、その人と一緒にいられる時間が好き、とかいうのは、「会話」じゃなくて、「空気」を楽しんでるのですよね、きっと。
私は小説では、社会的な問題提起、などは一切していない、というか、そういうことは書けないのですが、でも「空気」を書くだけで、「現代」は伝わる、描写できるのではないか、と思ったりします。
「よるとあさのあいだにあるすきま」は、文体は先生に評価してもらえたのですが、「あなたの周りにドームがあって、登場人物はみんなそのドームに映った姿としか書けていない」と言われました。確かに、それを書いた時期、私は人と向き合うことから、ものすごく逃げていたのかもしれない、と思います。
でも、電話を切ったあと主人公が泣くのは、人と話していたはずなのに、それが多分自分の中まで入ってこない淋しさなんじゃないかな。自分で書いといて、無責任な物言いですが…。
自分の中に余裕がないと、人を、「ドームに映った映像」としてしか見られなくなる、そう思います。
あとパソコンのスクリーンを見て、何かが伝わっていないという気がしてしまうというシーンも書きましたが、あれは一応「デジタル」なものに対する批判でした。(まさかその頃は自分がこんなにパソコンにはまろうとは思っていなかったし…)
パソコンを通さなくても、周りの「デジタル化」に影響されて、人間まで、どんどんデジタル化してしまっている怖さを感じてしまいます。時々、横に座って話しているのに、なんだかあまり存在を感じられない人とかいて、怖い。気のせいなのかもしれませんが…。
言葉を操っている私が言うのも変かもしれませんが、言葉になる以前のもっと曖昧模糊としたものを、大切にしたい。不安定なものを、大切にしたい。…理性の奥にきっと理性では処理できないものが入り込んでくるところがあると思うのです。私はもしかしたら、ものすごい寂しがり屋なのでしょうか、そこまで入ってきて、埋めてくれるものがないと、不安です。皆さんは、そんな「物足りなさ」を、「現代」に感じたことはありませんか?