今日は、「燐光群」という劇団の公演を見に行きました。昔から一度みてみたいと思いながら、機会がなくて、今回初めて。
「漱石とヘルン」という芝居を、新宿の紀伊国屋(新しい方の)でやっているのですが、佐野史郎が客演していて、かなり見応えのある演技をしています。別に、その劇団の回し者ではないんですけど、いい芝居を見たな、という気分だったので、宣伝を兼ねて書いてみました。
結構全体的に現実っぽい色で演じられているんですけど、現実を深く突き詰めていくと非現実、幻想の世界に入っていくのだろうか、という感じで、現実離れした美しさや力を持ったシーンもあるのですが、それがとても自然に受け入れられてしまう。
私は結構、自然主義というのか、日常にそった小説を書いていますが、日常というのは、ふと意識したとき、何だかぎこちなくなって、日常を生きていると言うことを意識する。
よく私が使う例えでは、意識すると急に階段が下りられなくなるというあれです。そういった感じのことを漱石はそういえば、「門」の始めで、「近来の近の字はどうやって書くかな」という台詞で言っていますね。簡単な文字ほど、何度も書いていると、本当にそれでいいのか、大変不安になってくる、ということは誰にでもあると思います。
あと、それと同じ事ことなのかもしれませんが、「ぎこちなくなる」というより、意識的に、あるものをじっと観察していると、日常にあるものも、日常のものではなくなる気がします。それが「芸術」の「日常」を見つめるスタンスなのではないかな、と私は思っていますが。
例えば、ひたすら影のつき方を考えながら、物を凝視し、デッサンしていると、それはコップであっても、もうそのコップに水を入れる、という役割は期待できなくなってくる。…私の思考形式が変わっているのかもしれませんが…(^^;)
あと、最近やっと料理をできるようになろう、と思って、ちょっとずつ食事を作る手伝いを始めましたが、料理を作るのって楽しいですよね。野菜とか手にとって、切ったり、煮たりして、「食べ物」にしていく。
「食べ物」の時点しか見てないと、別にそれはただの「食べ物」なんですけど、土の付いたゴボウとか、根の付いたままのネギなどを見ていると、その野菜が育っていた場所まで想像ができるんですよね。…まぁあまり想像力豊かにしちゃうと、鶏肉とか怖くてさわれなくなっちゃうんですけど(^^;)
でも、肉じゃがに入っているジャガイモと、土の中ですくすく育っているジャガイモと、どっちが本当のジャガイモの姿なのだろうか。…うーん、書いていて、ばからしいことを私は言っているな、と思うのですが、でも、芸術って、もしかしたら、そんなところから始まるのかもな、と思った今日でした(笑)