今年の本屋大賞を受賞した恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』を読んだ。
先に本屋大賞第2位(森絵都さんの『みかづき』)を読み、「これが2位なんて!(1位じゃないの?!)」と思ったのだけれど、『蜜蜂と遠雷』を読んで、納得。
『みかづき』と『蜜蜂と遠雷』は、全然違ったタイプの作品で、楽しみ方も違うものだから、比べるのは難しいのだけれど、『蜜蜂と遠雷』は純粋に、読書の楽しみを最大限楽しませてくれる本だと思った。
ストーリーで引っ張る部分もありつつ、でも、一つ一つのシーンの描写が素敵で、その世界に浸っていたくなる感じ。
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『蜜蜂と遠雷』と『みかづき』の両方を読んでみて
『蜜蜂と遠雷』と『みかづき』を両方読んで思ったのは、「小説を普段からたくさん読んでいる人に薦めたいのは『みかづき』で、普段あまり読まない人に、小説って素晴らしいよと分かってもらうために薦めたいのが『蜜蜂と遠雷』かな」と。
『みかづき』のほうが、「文学」って感じがする。メッセージ性もありつつ、確かな世界観もあって、完成されている「作品」。
★『みかづき』の感想はこちらに書いています!
それに比べると『蜜蜂と遠雷』は、もうちょっと「大衆化」された「文学」。でも、俗っぽくなりすぎず、私は良い感じのバランス感だと思った。
amazonのレビューを読むと、「薄っぺらい」と批評している人も多いようだし、私も恩田さんの「夜とピクニック」を読んだときは、「これは文学じゃない」とどこか拒否反応があって、作品のなかに入り込めなかった。
『蜜蜂と遠雷』も、「大衆的なエンターテイメント」と「文学」のはざまに位置するものなのは確か。でも、私はこの作品の世界の描き方には、違和感がなかったから、純粋にその世界を楽しめ、心から「読んでよかった!」と思えた。
……というか、正確に言うと、読み終わってから「読んでよかった!」と思ったというよりは、読んでいるあいだに「この本を読めていて、よかった。まだ明日もこの世界を楽しめそうで良かった」という感じ。(読み終わっちゃって、淋しい……)
『蜜蜂と遠雷』のあらすじと心に残ったこと
『蜜蜂と遠雷』は、簡単に言うと、国際的なピアノコンクールの話。
予選から第一次、第二次、第三次、本選と主人公たち(この本には、視点人物が5人いる。コンクールに臨むコンテスタントと呼ばれる人の中に4人、選考委員のなかに1人)の演奏や、心の変化、成長などが描かれていく。
すごいコンクールなのだろうということは、ピアノの世界に疎い私にも次第に分かってくるのだけれど、でも、一つのコンクールの予選から本選までで500ページもの大作ができあがるって、それだけですごい!
その丁寧で緻密な描き方に、恩田さんの執念みたいなものも感じられて、圧倒される。
恩田さんの経歴は詳しく知らないけれど、デビューしてから今まで、「音楽の世界を書く人」というイメージはないから、多分、この作品を書くにあたって、恩田さんもゼロとかイチから取材を重ねて、「中の人」の気持ちと同調できるくらいになって書いているのだろう。そう考えると、本当、すごいな、と。
どんな世界を書くのでも、自分が経験したことがない世界なら、取材をして、「経験した気になって書く」ことは必要になってくると思うのだけれど、『蜜蜂と遠雷』で描かれているのは、主に、生まれつき音楽の神様に愛されている、天才肌のピアニストたちだから、本当に、憑かれたように書けないと難しいだろうな。
「主人公」であるコンテスタントは4人と書いたのだけれど、そのうち2人は「天才肌」。1人は秀才タイプ。もう一人はその間に位置するように描かれている。この4人の選び方も非常にバランスが良い。
そして、この差が、選考の途中で明暗を分けていったりする。その部分に、「天才」ではない私は、衝撃を受け、でも読み進めるにつれ、「もしかしたら、天才と秀才の対比などという簡単なことではなかったのかも」という気づきも徐々に生まれてくる。
ネタばれになるので、詳しくは書かないけれど、是非、500ページの大作に挑んで欲しい! ま、読み始めたら、「挑む」なんて気持ちはなくなり、ただその世界に心地よく浸れると思うけれど。
一番心に残った言葉
この本で一番心に残ったのは、第二次予選に挑む前のマサル(天才と秀才両方の面を持つ優勝候補)の心のつぶやき。
今の僕にできると許されていることは、必ずできる。逆に言えば、今できないことは今の僕には許されていないのだ。
(略)
マサルに唯一理解できないことは、こういう感覚を他人は持っていないらしい、ということだった。暗譜ができないかもしれない、度忘れしてしまうかもしれない、うまく弾けないかもしれない。他の人たちはしばしばそういう不安や恐れを感じるらしい。プレッシャーがあり、舞台が恐ろしいこともあるらしい。マサルのようには、当たり前に「できる」と感じていないようなのだ。
マサルは、「天才」の部分もあり、頭で色々計算もできる「秀才」的な部分も持つタイプとして描かれているのだけれど、これはきっと「天才」の感性なんじゃないかと思う。
でも「秀才」的な部分もあるから、その感覚を客観的に分析し、言語化もできる。
だからこれはマサルの言葉だけれど、きっと「天才」として描かれている塵や亜夜もこんなふうに感じているのだろうと思わせる。
そして私の心に残ったのは、「今の僕にできると許されていることは、必ずできる」の部分よりむしろ、「今できないことは今の僕には許されていないのだ」という部分。
これは一見あきらめのような言葉にも見えるけれど、多分、そうではない。
つまり、「天才」とは、「自分の行為を自分の行為であって、自分の行為でないもの、神様とか宇宙の流れのようなものが、ただ自分の体を使ってこの世に表現されているものでしかないと分かっている人」「その流れを信用し、流れを堰き止めず、自分の意志で流れを変えようともしない人」だと、マサルは言っているんじゃないか、と思った。あくまで私の解釈だけれど。
『みかづき』の主人公の千明は、とても強い意志があり、その意志で時代を切り拓いていこうと、戦っている女性だった。それはそれで、非常に魅力的な人物だった。
でも、私が憧れるのは、世の中と真っ向から戦って新しい時代を築く人ではなく、むしろ、もっと大きな流れに身をゆだね、無理しない自然体で、人に感動を与える人かもしれない。
『蜜蜂と遠雷』のコンクールは、基本的にはアマチュアのデビュー戦みたいなもので、主人公たちもプロのピアニストではなく、学生だったり他の仕事を持っているひとなのだけれど、でも、自然体で「音楽の神様」とつながり、それを表現できる彼らは、きっと素敵なプロフェッショナルになっていくのだろうと思った。
と、色々書いたけれど、難しく考えず、ただその世界に浸って楽しめる本だと思うので、「次、何読もうかな」と思っている人は、是非、手に取ってみてください♪