日記的なもの

エッセイ教室

昨日は一年半通った(といっても、一ヶ月に一回)エッセイ教室の最後の日だった。

半年ごとの更新で三クール通ったが、今回は継続しなかった。

エッセイを書くのはつらかった

それは仕事の関係で、時間的に厳しくなったからというのが大きいけれど、エッセイを書くのがつらい作業だったというのもある。

でも、そこでふっと思ったのは、小説を書いていて、「つらい」と感じたことはほとんどないな、ということ。

いいものを書きたいという思いが募りすぎて、何を書いても自分の書いているものに価値がないように思え、悩むことはあるけれど、それでも書くという作業が「つらい」ものになっていることは、なかった気がする。

 

さいたまの文学賞でも「この作品を書くときに一番苦労したのはどんなことですか?」と聞かれたけれど、小説を書くことを「苦労」などと感じたことはないので、何も答えが見つからなかった。

そう考えるとやっぱり、小説を書くという行為は、自分の性に合っているのだろう。

ということで、一種の逃げかもしれないと思いながらも、性に合わない文章を書いていても仕方がないので、エッセイはもうやめることにした。

 

伝えることの難しさ

ただ、エッセイを書くことで学んだことはある。それは「伝えることの難しさ」。

小説を書くという行為は、「頭の中で世界を構築する」→「それを伝える」という、多分二つの段階を持ったものだと思う。それに対して、事実を書くエッセイは、「伝える」という部分だけのもの。

小説だけを書いている間は、「世界を構築する」という部分に重きを置きすぎて、それを正確に「伝える」ことの大変さに目を向けていなかったのではないかという気がした。

実際に会った出来事、そこで感じたことを、その場にいなかった人に正確に伝えるのはとても難しい。

実際にあったことでも伝えるのは難しいのだから、私が勝手に頭の中で作り出した世界を人に伝えるには、私が思っている以上に、たくさんの工夫と努力が必要なわけだ、きっと。

それに気づけたことが、一番の収穫だったかな。

 

特に、エッセイでは、自分の出会った人について書くことが多かった。

そしてその多くは、出会って良かったと思える大切な人。

その人の魅力、その人と出会った良かったということを、いかに伝えるか。実在の人間だからこそ、かなり気を遣って、描写してきた気がする。

ほんと、いい勉強になったと思います。

 

他の世代の視点

あと、つらいつらいと思いながらも、二回も更新したのには、他に理由があった。

それは、同じクラスの人のエッセイや話に、色々なことを考えさせられたから。

 

私の通っていたのは、カルチャーセンターの、平日の午前中というクラスだったから、五十代、六十代の女性の方が多かった。

エッセイの「入門」のクラスだったから、正直、文章の書き方では「あれ?」というような作品も多かったのだけれど、年輩の方の書いたものは、不思議な重さがある。深い。

これが原稿用紙5枚程度のエッセイではなく、長編小説だったりしたら、読むのがつらくなったりしたかもしれないけれど、自分の実際の体験を短くまとめたものなので、文章はあまり上手くなくても、内容が深ければ、それだけでもう、問題なく読めてしまう。

そして、「あぁ、生きていると、こんなこともあるのだ」「こういう年齢になるとこういう視点でものを見るようになるのだ」ということを強く感じる。

最近は仕事の関係で、教室が終わるとすぐに帰らなくてはいけなくなってしまったが、以前はよく、クラスの中の七、八人で食事に行った。

二十代(私)、三十代、四十代、五十代、六十代、と世代がうまくばらけ、しかも、小さい子供のいる人、思春期の子供がいる人、巣立ち間近の子供がいる人、子供が巣立ったばかりの人、新しい家庭を持った子供のいる人……と本当に幅が広く、自分の十年後、二十年後、三十年後……が少しだけ見えるような気がした。

 

そうやって色々な世代の人と交わる機会というのは少ない。

だからつい、自分の世代の、「今」の悩みにだけ没頭し、普段私たちは視野を狭めて生きているのだと思う。

他の世代の人の話を聞いていると、生きることは決して楽ではないということがひしひしと伝わってくるのだけれど、それでも時は移ろうし、そうすると悩みのジャンル(?)もまた変わっていく……全ては流れなのだなぁと思え、自分の今現在の悩みが少しだけ軽くなったような気がする。

そして少しだけ、自分の見えない「将来」のことを考えられそうになる。

本当、そこでの出会いは、良いものでした。私が最年少だったこともあり、色々な人にかわいがってもらった気もするし……感謝です。

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