高野山再訪/所詮自分は人間

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1年半ぶりに2度目の高野山。

去年の春に初めて高野山に行き、奥の院の厳かな雰囲気に圧倒され、ファンになった。

 ※去年書いたブログ→「高野山・奥の院の樹木の力がすごい

そのとき、「一年後、また来ます」とそのあたりの見えない存在達に約束してきたのだけれど、コロナで行けず。でも、秋の高野山もまた良かった。

標高1000メートルの高野山はすでに「冬」で朝晩はダウンコートやタイツがいるくらいだったけれど、その分、一足早く紅葉が見られ、得した気分。

 

信じる力が産み出すもの

奥の院は、入り口から2キロほど続く森の中の道。その先に、弘法大使御廟がある。

弘法大使御廟と、奥の院の最後の100メートルくらいは、写真撮影禁止。帽子も脱いで、静かに詣るようにという注意書きがある。

人が大勢いるときには感じられないのだけれど、夕方など人の少ないときにその領域に入ると、ぐっと空気の密度が濃くなったような、足が重くなって、ゆっくりしか歩けなくなるような感覚を味わう(個人的な感想)。

 

と、最後の約100メートルは特に特別な領域なのだけれど、その手前の2キロの道の空気感もすごい。

樹齢何百年の松に取り囲まれ、見下ろされているような感覚もすごいし、その松のあいだにあるのは、すべてお墓。

弘法大使の御廟のふもとで自らも眠りたいと思う人(武将の墓など、歴史的人物の墓もたくさん)が、こんなにもたくさんいるのか、ということにも圧倒される。

 

御廟の周りには何千もの燈籠が飾られていて、それらすべては寄進されたお金で賄われているもの(大きさや飾られる場所によって、50万円・100万円・200万円とあった)。

そんな燈籠が所狭しと並ぶ地下の部屋はコロナで今年は入れなかったけれど、あのおびただしい数の光の生み出す光景を見ると、人々の信じる力が集まれば、たとえ存在しないものでさえ産み出されるだろうな、などと思う。

 

もちろん、弘法大使様自身もすごい人なのだろう。でも、あの場をすごい場所にしているのは、あの場に眠る人々、あの場を訪れる人々の心の力の結集だなと感じるのだ。

 

人々の信じる力は、誤った方向に使われると、戦争など恐ろしいものになるけれど、高野山の信じる力の結集の力は、とても心地が良い。

それはきっと、あの場にもっと古くから存在する木々の力……山の神様とか、木霊とかそんなものたちの力のためなのだろう、とも思った。

所詮自分は人間

最近、大きなプロジェクトの主要メンバーに選ばれ、珍しくプレッシャーを感じていた。

で、高野山に行く前から、神社に行くと、「所詮、人間だから」というように言われているような気がしていたのだけど、

今回、上記の写真のような、自分より何十年、何百年と生きている木々に囲まれ、見下ろされ、改めて、自分はやっぱり所詮人間だな、としみじみ思った。

 

それは否定的な意味ではなく、むしろ、自分にとっては安心感。

私はいい意味でも悪い意味でも、責任感が強く、色々余計なものを背負ってしまうところがある。

でも、そうやって無理に背負って、自分だけの力でガリガリと頑張ったときには、いい結果が出ないことも知っている。

人間が本当に力を発揮できるときというのは、多分、いい意味で力が抜け、流れに身を任せられているとき。その流れを信用できているとき。

 

ああいう大きな木々と、もはや人間ではなくなったスピリットたちに囲まれていると、「所詮、人間である私があがいたところで、大したことはできないなぁ」と、なんだか不思議と爽快な気分になった。

 

がむしゃらに頑張っているけれど、空回っている感じがする人とか、結果は出ているけれど、疲れ切ってしまったという人は、ああいう場所に行って、一歩一歩ゆっくり噛みしめて、歩いてみるといいのではないかな、と思う。

私もまた来年、行きたい。千葉からは驚くほど遠いのだけど(^^;) それでも行く価値を感じるくらい、私にとっては好きな場所。

 

おまけ1:金剛峯寺で千住博さんの襖絵が見られる♪

私が高野山に行く目的は奥の院なので、他のところは別にいいかな、という感じなのだけれど、金剛峯寺に千住博さんが襖絵を奉納し、それが10月から一般公開され始めたということを知り、それを目当てに金剛峯寺にも行ってきた。

 

襖絵は二種類あり、「崖」と「滝」。滝の方は襖絵になっても千住さんの絵は千住さんの絵だなという良さだった。

 

 

 

おまけ2:精進料理がおいしい♪

去年に引き続き、今年も宿坊に泊まった。

ただ去年は部屋にトイレと洗面所がないのがつらかったので、今年は去年より贅沢して、トイレと洗面所がある部屋を選べるお寺に(一乗院)。

 

今年はコロナでヨーロッパ系の外国人は本当、見なかったのだけれど、去年は同じ日に12人ほど泊っていて、2人以外(私ともう一人)は皆外国人だった。

そして一つの部屋に全員集められ、一つのグループの宴会のようなレイアウトで食事をするスタイルで、非常に落ち着かなかった。

宿の人は準備で忙しく走り回っていて、できたものから食べてということなのか、まだ待っていてということなのかも分からない(^^;) そして、外国人たちは「日本人のお前は分かってるんだろう?」みたいな目で見てくる(と感じる)。

そんななかでの食事だったから、味も何も分からず、必死に食べた(笑)

そして、部屋に帰ってから、「何か足りない~」と思った。

 

そのときの「何か足りない~」が記憶に残り、自分は肉とか油とかないとダメなのかなぁなんて思っていたけれど、違った。

単純にあのときは、味わって食べられなかったから、食べた気がしなかったということ(^^;)

 

今回の宿は食事がむちゃくちゃ美味しく、さらに元々なのかコロナでなのか部屋食になっていたから、一人でのんびり食べられ、大満足だった。

しっかり味わえば、肉や魚がなくても、美味しいんだなぁ。

このイチジクの揚げ出しというものが、特に美味しかった。

魚の刺身の代わりに湯葉の刺身とか、ちりめんじゃこのじゃこの代わりに細切りの湯葉とか……その工夫と、一つ一つの手間が沁みる。

 

※ただ精進料理はただ観光客に向けたアピールのもので、別に肉や魚を食べてはいけないとかはなさそう。

夕食前に飲み物の注文はいいですか?と普通の旅館みたいにお酒のリストも渡された。あ、お酒も飲んでいいのね、という驚き。

私は個人的に精進料理とお酒は合わないのではと思い、飲まなかったけれど、お酒を飲まないほうが料理を味わえるという発見もできた。旅館で美味しい日本料理を食べるなら日本酒を飲んだ方がおいしく食べられると信じていたけど、その考えも見直してみる。

……と、おまけの方が文章長いかも(笑)

 

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