嶽本野ばら

嶽本野ばら「ミシン」再読:自分の信じる世界を貫け

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 野ばらさんの作品、もうずっと読んでいなかった。今回サイトリニューアルをするにあたって、過去記事を読み返していて、「あぁそうだ、私は野ばらさんのファンだったんだ」と思い出した(おいおい)。

 サイン会にも3回くらい行ったはずなのに、サイン本含め、野ばらさんの本は一冊も手元になく、驚く……(数年前、大片付けをしたときに手放してしまった)。こういうところ、私って、淡白。

 ということで、改めてKindleで購入して読みました。まずは、デビュー作から。

 そして、「やっぱり、野ばらさんの文章、好きだわぁ」と再認識。

 心が離れてきた頃~最近の作品を読んだら、どう感じるかは分からないけれど、以前好きだった初期の作品の世界観は、今もやっぱり自分にしっくりと馴染む。私自身も、変わったようで、核の部分は変わっていないんだなと、久しぶりにお気に入りの本を読むと気づく。

現代小説らしくない小説

 野ばらさんの作品は、私が知っている限りすべて、「ですます調」で書かれている。

 手紙を書いている風の小説の場合、「ですます調」になることもあるけれど、多くの小説は「である調」で書かれている。「ですます調」で小説を書くということは、それだけで、”強いこだわり”を感じさせる。

(野ばらさんはインタビューで、「自分は文章が上手すぎるから、それを隠すためにあえて『ですます調』で書いている」みたいなことを言っていた。文章を書くプロほど、自分の文章は書けば書くほど、まだまだ下手だと感じるものだと思うのだけれど、この自信もまた、すごい)

 しかも、小説は「シーンを書け」とよく言われ、説明調の文章が長く続くことを嫌う。でも、野ばらさんは平気で、長々と自分の好きなファッションや、そのファッションが生まれた時代背景、社会的な意義みたいなものまでを語る。

 また、吉屋信子が好きだと公言するだけあり、文章自体もやや古風で、字の文で「鳴呼、なんと〇〇でせう」などと、平気で書かれていたりする。

 つまり、“普通”の小説を読みなれている人には、「普通、小説ってこうじゃないよね?」という感覚にさせられるのが、野ばらさんの小説。

 略歴を調べると、フリーペーパーに連載していたエッセイ( 「それいぬ――正しい乙女になるために」 )が熱狂的な支持を得て、書籍化され、その後、知り合いの編集者に薦められて小説を書き始めた、とあるので、「あぁ、それで、この小説の形式を最初から壊した感じなのね」とやや納得。

 そして、太宰治の影響を受けていると聞くと、「確かに、太宰の文章は、長々と自分の想いを語り続けているし……似たテイストではあるかも」と思う。

 それでも、ここまで「(現代)小説とは」という枠から自由に、自分の世界を構築し、「誰にも文句は言わせない。好きな人だけ好きだと言ってくれればいい」と開き直っている感じは、すごい。

 野ばらさんは、小説は「君へのラブレター」だと思って書いていると言っていたけれど、なるほど、そういう意識で生み出されたものなのか、と思う。ラブレターなら、小説の形式など、どうだっていい。

結局、作り出す世界の強さ

 野ばらさんの話から少しそれるけれど、同じくサイトリニューアルのために読み返した記事に面白い引用があった。

 小説の書き方について書かれた『何がなんでも作家になりたい』という本からの引用。

最終まで残った作品を並べて読んでみればわかる通り、一定水準をクリアした作品は、『どこにも欠点がないかわりに、何となく、勢いというか、面白さがたりなくて、どうコメントしていいか困る』といったものがよく出ます。

 こんなとき、現代小説なら「人間が書けていない」とコメントし、時代小説の場合なら、とりあえず時代考証のアラを探します。

 これ、むちゃくちゃ面白いな、と思った。

 粗が出ないようにしようと思い、そこに意識を集中させればさせるほど、世界は小さくなっていき、パワーはそぎ落とされていく。

 エイブラハムなどから色々学んだ今なら分かる。だって、「粗が出ないようにしよう」って思いは、自分の外に答えがあり、それに私が合わせなくては、という考え。そんな考えで行動していたら、自分のパワーは弱まるばかりだ。

 自分は結果が出せないあいだ、ずっとこのトラップに嵌っていた。

 結果が出ないから、もっと精度を高めて「いい小説」という外にある理想に近づくように神経をとがらせる。……その結果、どんどん「自分らしい表現」を見失い、パワーを失くす。

 そう気づいたあとに、改めて野ばらさんや、私が「この作家さんは、デビューの時から、変わらなくてすごいなぁ」と感じる小川洋子さんの作品など読み返すと、なんだか感慨深い。

 自分が求めるべき「良い小説」のヒントは、自分が過去にはまり込んだ作家の小説世界にあった。

「ミシン」感想

 と、自分のことばかり書いて、本の中身についてほとんど触れていなかったので、改めて……

『ミシン』には「ミシン」と「世界の終わりという名の雑貨店」という2作品が収録されている。「世界の終わりという名の雑貨店」の方が、小説として大分こなれていて、すっと読みやすい。

 なかなか人から理解されない少女と、世界に馴染めない男性の逃避行とその後。ふたりの恋愛は特別なようであって、普遍的な部分もあり、そう違和感なくその世界に入れる。

「ミシン」の方は、パンクロックと「エス」という女性同士の恋愛のようなものを描いた話なので、やや共感はしづらい。

 でも、上記のような、「人に理解されるとか、評価される枠なんてとっぱらってするのが本当の表現なんじゃないか?」ということを、主人公が憧れるロックミュージシャンの「ミシン」は分かりやすく語る。

 あぁきっと野ばらさんも、こんな心持ちで小説と向き合っているのだと参考になり、そういった意味では、今読み返して良かったと思えた作品。

(エイブラハムの思想の影響を受けてから、本当、人の行動よりも、その人の心の持ち方と結果との関係に非常に興味がある)

 野ばらさんの作品は、すごく癖はあるのに、とても読みやすく、その世界がすっと中に入ってくる。多分また、そう遠くないうちに、他の作品も読み直す(もしくは、読んでいない最近の本を読む)と思う。

 

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